散歩道<958>
ゆりかご海流・歴史シンポ「文化回路としての瀬戸内海」(2) (1)〜(3)
発表された内容を私なりに纏めたものです。
文明渡来のルート:古代の関所について定めた法律では、海路で通行証明が必要な港は、瀬戸内海の東西の端である。長門(現在の山口県)と、難波(同大阪府)の津だけである。たの港は自由に行き来ができた。新羅の王子の天日矛ら多くの渡来人が瀬戸内海を通って難波へ来ていたことを伝える。おそらく製鉄や那恵器の技術もこのルートでもたらされた、遣唐使や、唐、新羅からの使いも瀬戸内海を通って往来した。シルクロードの終着点ともいえる摂津の津を管理する「摂津職」は非常に重要なポストとされた。四天王寺や住吉大社も、護国の寺社として外交と深いつながりをもっていた。瀬戸内海の大三島にある大山祇(おおやまつみ)神社が山の神でありながら海の民の信仰を集めたのも、山が灯台のように船の目印になったからだ。660年に百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた際、日本への連合軍の侵攻に備えて瀬戸内海に面し多くの朝鮮式山城が築かれたことは、この地域の軍事的な重要性を示している。平家も、足利氏も、瀬戸内海の水軍が後ろ盾だった。瀬戸内海は単なる通過点ではない。吉備国(岡山県)には280bを超える5世紀の古墳2基がある。造山古墳と作山古墳だ。世界最大の仁徳天皇陵(大仙古墳)などに告ぐ規模の古墳が、なぜ岡山にあるのか。瀬戸内海の要塞の地だったからだ。江戸時代にも瀬戸内海の物資流通が大阪商人の経済力を支え、上方文学・芸能を生み出した。こうした歴史を瀬戸内海の視点から再検討する研究が必要だ。
京都大学名誉教授・上田正昭氏
'06.3.15.朝日新聞
関連記事:散歩道<956>「鎖国時代」はなかった上田正昭氏