散歩道<879>
講演会・近代日本オリンピックへの道
"近代日本オリンピックへの道"というタイトルで講演会があった。江戸末期から外国と結んだ条約は全て不平等条約であった。これらを解消する為に、明治時代末(1911小村寿太郎の日英同盟改定まで)にかけて日本政府は大変な努力をした。一つの方法は軍需力の強化である。軍艦の数を増やすという考えと、もう一つは文化を高めるという方法(一等国に成る為に)であった。その為、(その選択肢の一つである)オリンピックに参加することを決めた。当時の朝日新聞によれば(1912年第5回、ストックホルム大会である)、参加者団長・加納冶五郎、選手は2人(金栗、三島)、入場式ではスポーツウエアと半ズボン、各国の選手団はスーツ姿で長ズボンのスタイルとは全く異なるもので、入場式に参加した様子は非常な大喝采を受けたらしい。三島は100b、400b競争に出たが、ビリだったそうだ、1万b参加する予定の金栗選手は結局参加せずだったらしい。新聞には、日本選手は十分な練習を積めば、次回のオリンピックには勝利を占めることにもなると予想している。当時オリンピックがこのように考えられていたとは、興味ある話として聞いた。
来日したイギリス人・ストレッジ(1854-89)により(東京大学運動会1883.6.16)実施されることになった、(講演会)の話では、夏目漱石*1の”三・四郎の本”(6−9、6−10、6−11)に、(東京大学運動会)関する記述が書かれているという話だ。それによれば、明治16年第1回東京大学運動会開催された、(景品は時計、銀メダル、靴であったそうだ)。(種目は百b,2百b、4百b,千b、高飛、長飛、棒高飛、砲丸投、槌投、クリケット競技、)。最初の頃(M36)には、(百bの第3回と第4回が時間差が大きいので、走った場所が同じであったか?、少し坂ではなかったか?疑問が残るらしい?),前年優勝者にはハンデーが20%(長さ)科せられたらしい?。
'06.2.22.日文研学術講演会・牛村圭・国際日本文化研究センター助教授"三・四郎の運動会・近代日本オリンピックへの道"
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備考:NHK・TV・もう一度聞きたいこの人夏目漱石の言葉・(大学教授から新聞社に移るときの言葉)「ああ自分の道はここにあった」2007年3月28日