散歩道<5988>              私流に纏めました

                              講演会・内藤湖南、応仁の乱を論じる

 応仁の乱とは1467年~1478年まで、細川勝元と山名崇全の家督争いと、足利義政の跡継ぎ問題、諸国の守護大名が細川方の東軍と、山名方の西軍に別れて戦い、戦乱は地方に拡大し、幕府の権威は失墜し、戦国時代を現出した。
 そこで起こったのはこれ程の大改革はなかった。これには優れた能力を持った人が出てこなかったからです。この現象は下克上という生易しいものではなかったことに成ります。当時は浄土真宗(一向宗)が一向一揆などで危険思想と見られていました。国史をやる人の見かたでは、足利の下に細川、畠山、(その細川の下に三好、三好の下に松永)が存在していた、一方、一条兼良が行った下克上は最下級のものがあらゆる秩序を徹底的に破壊するということに成ります。特に応仁時代というのは日本全体に平民の実力の興起を起こした時代ということに成ります。当時の戦国大名には上杉、武田、今川、朝倉、六角、大内、尼子らの守護大名ですが彼らの多くは急速に没らく。守護、守護代、公家が地方へ移っていった。そのような意味では「革命」というよりも地方分権というのがふさわしい。思想上においても、その他すべての知識、趣味において、今迄貴族階級が占有していたものが一般市民に広がっていった。
 ここからは私の記憶ですが、「応仁の乱」は戦う両者は何の為に戦っているのか理解が殆どされ無いまま、ただ意味なく何年間も主役が代わって戦った戦いであった、最後はどなたかの賢者が中に入り公平な金銭負担を各陣営が納得し、延々と続いたこの戦は終了したというのです。 '17.9.26. 
<検>講演会
'17.10.3.細川護煕さんは今回の衆議院選挙を称して、小池東京都知事が民進党から希望の党に入党希望者に対して1部の人を、排除と言いったことに、こざかしい、応仁の乱みたいに、ぐちゃぐちゃになったといい、これでは寛容の保守の看板が泣くと嘆いた。
'17.10.12.御厨貴氏は「小池代表が『排除』といった瞬間に(有権者が)一斉に離れたと指摘した。

'17.9.26.国際日本』文化研究センター・助教・呉座 勇一氏