散歩道<4504>
オピニオン・災害と専門家(2) (1)〜(3)続く ・・・・・ 発想を変える
「敗北」にたちすくまずに
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ラクイラ訪問に先立ち、私は日本に一時帰国した。関東大地震の前、日本でも厳しい予知論争があったと聴いたからだ。元朝日新聞記者で東京大地震研究所特別研究員の泊次郎(66)を訪ねた。論争のきっかけは東京帝大の今村明恒・助教授が明治38(1905)年秋、雑誌「太陽」に寄せた一編のエッセイだったという。「安政地震から50年が経過し、次の大激震発生への備えに東京市民はもう1日の猶予もない。火災が起きれば全市灰燼(かいじん)に帰し、10万、20万の死人もありうる」前文を読んでみたが、書きぶりは冷静であおるような調子はない。これが翌年1月、「東京市大罹災(りさい)」として大衆紙でセンセーショナルに紹介される。ほどなく実際に東京一帯が朝、強めの揺れが来た。同じ日、何者かが「中央気象台」をかたつて官庁や病院に電話をかけ、「今日の夕刻、大地震が来る」と告げて回った。デマは広がり、官憲が出動する騒ぎになった。今村の上司だった大森房吉教授は火消しに追われた。「東京には今後何百年も安政地震のような大地震は来ない。今村説に学理上の価値はない」と名指しで批判した。大森は熱心な研究者だったが、強情で、研究室に寄り付かず、大森と顔をあわさずに済む土曜日の午後にひっそり出勤した。大森は大森で、安全の太鼓判を押す役目にいっそう傾斜していく。大正11(1922)年春、群発地震に東京市民がおびえても、「大地震は来ない」と繰り返した。翌年9月1日、関東を巨大地震が襲う。不調をおして豪州出張中だった大森は帰国の船に飛び乗った。病状は悪化し、横浜港に着くと「重大な責任を感じている。譴責(けんせき)されても仕方ない」と語、り、そのまま入院。わずか2ヶ月後に亡くなった。
'11.7.31.朝日新聞、ニューヨーク支局長・山中 季広氏
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