散歩道<424>b
時流・自論・ ひとりぼっちのユートピア
ついこの間、ユートピア思想史を学生に教える機会があった。その際、感じたことがある。モア、フーリエ、ベラミーなどのユートピア思想家たちがユートピア、つまり理想の楽園として描いていた社会は,私有財産を否定し、全員にきつい縛りを加える規則だらけの社会であり、その分良くまとまった小さな共同体であることが多いということだ。そこでは個人は前景に出ることはない。むしろ個人の存在が、共同体に多少とも融和しているような社会こそが楽園なのだ、と多くの思想家たちは考えた。19世紀の産業社会の悪弊を分析する立場から生まれたマルクス主義も、労働者たちの生活様式を基準にした1種のユートピアだった。その意味で、きわめて一般的にいうなら、何よりも一種の社会主義として提示されているのだ。その後、20世紀の壮大な実験によって、その社会主義にも多くの問題があることが明らかになった。現代社会は、もはやユートピア像を創造しにくい世界、良い世界とはどんなものなのかを思い描くことさえ出来ない世界なのかも知れない。他方、無念なことに、ユートピアの反対のディストピアのほうは、いま現在、迫力のある実在感を伴ってわれわれの心に迫ってくる。「民主主義の」の御旗の下、他国を蹂躙するアメリカ。アメリカに本物のユートピアを見てなのか、利益の縛りに身動きできずに追随しているだけなのか、アメリカの国際政策を追認するだけの日本。その両国をディストピアだと呼ぶのはさすがに言い過ぎとしても、ディストピアの相貌をときにちらつかせていると述べてみるのも、あながち暴論とはいえない。ユートピアは想像することさえ難しいのに、ディストピアの影はちらほらと見え隠れする世界。われわれはこんな時代に生きているのだ。本当にユートピアは想像することすら困難なのだろうか。個人が共同体に溶け込んだような社会は、むしろ弊害や欠点が多いということがわかってきたいま、何か違うタイプのユートピア、個人の情念や自律性を大切にしてくれるユートピアを構想することは出来ないものか。今のようにとても大事なことが誰かに、いつのまにか決められてしまっているようなことがなく、個人がある種の緊張感と責任を持って重要な社会的判断を行いやすい社会・・・・・・。個人の自己決定や自立的判断を今よりもずっと重要視する社会。それはへたをするとバラバラな「個人主義」の社会に逆戻りだ、と心配する人もあるだろう。だが、私に言わせるなら、存在の奥底で他人とつながっているところがある。言語は個人では完結しないし、性的にも友愛的にも、人は自分の中に欠如を抱え込み、それを埋めようと必死になっている。バラバラといってもそれは言葉の綾で、本当に徹頭徹尾バラバラなどありえない。だから自由や自立性を大切にする社会構想の中に、解体の兆候を見て取る必要はない。むしろ、今までのユートピア思想が駄目だっのは、結局、一人ひとりの人間をどこかないがしろにしているとこるがあったからだ、とはっきり自覚したほうがいい。勿論、個人の自由を重視するということは、他者の自由と自立性を少なくとも意図的には侵害しない、という前提がなければ立ちいかない。個人の自由を重視するということは、そもそも個人が何でも自分で自己決定して良いと思うことでも、至るところで完全な自己決定が可能だと考えるということでもない。われわれは社会の網の目の中で生き、誰かに世話され、活躍の機会をもらい、又その逆に、誰かを世話しながら生活している。何かといえば「世間様」が顔を出し、自分の気持ちや理想をなかなか貫き通せないというのは、誰もが実感する風景なはずだ。だからこそ、世間様の言いなりになったり、人任せで流されたりという場面を少しでも減らし、自分は本当は何を美しいと思うのか、自分は本当は何がしたいのかを絶えず自問しながら生活していけるような社会、そしてその気持ちを何とか生かせるような基盤を整えた社会、そんな社会を皆で作り上げていくべきではないだろうか。私がぼんやりと夢想しているのは、各個人が最大限の自立性を保ち、自由に生き、同時に、他者の自由を可能な限り侵害しないような社会・・・いわば「ひとりぼっちのユートピア」なのだ。
'05.1.16.朝日新聞 東京大学教授・金森修様
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