散歩道<3931>
('10.10.21.朝日新聞に書かれた)、2つの戦争の話(1、太平洋戦争・2、戊辰戦争)
1、学徒出陣代表沈黙破る・太平洋戦争の悪化で徴兵が猶予されていた学生たちが戦地に駆りだされた「学徒出陣」の壮行会が東京の明治神宮外苑球技場で開かれ10月.21日で67年になるそうである。「生等(せいら)(われら)もとより生還を期せず」などと答辞を読んだ学徒代表、江橋慎四郎さん(90)がずっと黙してきた心境を語った。「答辞はわが身にとっては名誉なこと。だが、戦没者のことを思えば何も言えない」。答辞の文章は国学者の先生に添削されたが、「若者の心意気として国難に立ち向うという思いだった。当時の学生の気持ちを代弁したと思っている」。「同じ過ちは絶対に繰り返してほしくない」。そう繰り返す江橋さんは、いまも毎年2回沖縄を訪ねる。日本が中国やアジア、沖縄の人たちに迷惑をかけたことはわすれてはならないと思っている。
備考:”防人の詩”(インパール、ビルマ)を読んだ感想:日本軍は太平洋戦争の中期から行われた南方諸島や、中国北部から南方面に移動して行われた戦争では、後方支援は何も行わず(兵士、兵器、物資は、初回の供給のみで終わっていた)、戦争を継続したのだ。その為、殆どの兵士は病気(マラリア、コレラ)や発熱、障害による傷や、連日の雨点下での行進、又、栄養失調での死亡が、戦闘で亡くなった人数を上回る。食料の補給などは現地人から没収することが主に、考えられていたのだと思う。戦闘で傷ついた人は、やむおうえず治療を受けることもなく(手助けする兵士は食うものもなく、傷病兵士を背負う体力もなかった為)、そこに残され亡くなったのだ。このような状況で戦争を遂行する(戦線拡大)力も、戦略をたてる(攻撃を仕掛けることなど)ことも困難であったと思われる。日本軍は勝つことは勿論、戦うことなど元々無理であったと考えられる。
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2、142年前戊辰戦争で長州などの新政府軍に敗れた会津の白虎隊の隊士の子孫が20日、山口県下関市の功山寺で営まれた明治維新の志士らの慰霊祭に初めて参列した。自刃した隊士20人のうち唯一生き残った飯沼貞吉の孫で東京在住の一元(かずもと)さん。長州の三吉慎蔵のひ孫の冶敬(はるたか)さんが迎え、がっちり握手した。主催団体の結成60年を記念して招いた。各地の石碑を集めた慰霊塔には白虎隊の碑も。「いまだ怨念(おんねん)は解けないが非常に意義深い」と一元(かずもと)さん。雪どけの日は近いか。
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備考:陸奥地区では、津軽藩と南部藩の結婚は明治以降でも大変難しかったと、話は聞いている。