散歩道<3886>
面白い文章・半藤一利様の話・1、「帝国領土とする方針は公表しない」・2、「許そう。しかし忘れない」
1、「帝国領土とする方針は公表しない」・「大東亜政略指導大綱」の決定
対米英戦争は、アジアの植民地解放という崇高な目的をもった戦いであった。ゆえに大東亜戦争と呼称すべし、と抗議の手紙をよこす人がいる。私が太平洋戦争といっても描いているのが気に入らないらしい。わたしは、自存自衛のための戦争と位置づけている。「開戦の詔書」はそう明記している。
しかも、われら国民の願いとは無関係に、当時のリーダーたちがとんでもないことを意図していた事実がある。1943(昭和18)年5月31日、御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」の第六項である。
「マレー・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベス(ニューギニア)は、大日本帝国の領土とし、重要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる・・・。これら地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない」
アジア解放の大理想の裏側で、公表できないような、夜郎自大な、手前勝手な、無謀な植民地化を考えていた、という事実だけは、21世紀への伝言として記憶しておかねばならぬ。
2、「許そう。しかし忘れない」・泰緬(たいめん)鉄道の完成
ビルマ(現ミャンマー)とタイとの国境、クワイ川にかかっていた橋のそばの展示館には、いまも「許そう。しかし忘れない」と記された記念碑が残っているという。イギリス映画「戦場にかける橋」ですっかり有名になった泰緬(たいめん)鉄道の橋である。映画の、爆破されて橋が落下する壮絶で、絶望的なラストシーンは忘れ難いが・・・・
事実は、イギリス兵の捕虜と現地人を使っての鉄道施設の突貫工事は完工し、「戦場にかける橋」も落ちることなく無事に架かったのである。鉄道完成は1943(昭和18)年10月17日、大本営命令の八月より遅れること四十余日である。
しかし、タイから戦場であるビルマへの補給路としての折角の鉄道は、連合軍の爆撃で全く果たせなかった。現地人3万人、英兵捕虜1万人、日本人千人の死は何の為であったのか。しかも、戦後のタイやミャンマーの開発にも役に立たず”死の鉄道”としていまは消えているという、無残この上ない。
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