散歩道<3863>
美術展・京都日本画の誕生
京都市立芸術大学130周年記念展
この美術展を見た最初の感想は、幕末から明治初期にかけて日本国内では、幕藩体制から明治政府へ、又、天皇の京都から東京へ遷都など大きく揺れた当時、美術界にも東京に対して、関西の芸術が地盤沈下する恐れに対応する動きが京都に関係する画家達から、起こったという興味ある話である。
当時在野で、個々バラバラであった画家達の専門家を育成する学校(という施設)を作ることに多くの画家に結束を呼び掛けて、その力を利用して政府(京都府)に働きかける行動を起こした。その中心になったのは当時の京都画壇をリードしていた画家の幸野楳嶺(京都芸術大学創設者)等である。
日本画や工芸品についてもその価値の高さを日本や或は世界に訴えたいと思った。そのため、外国人の講師フェノロサ等*1を招いて講演を依頼したり、制作した作品を世に知らしめるため、当時多くの集客が見込める国内や世界の博覧会や、色々な毎年開かれるようになった美術展に作品を出品した、それが、美術作品のレベルアップに役立ったのである。
江戸末期にスポンサーであった、大名や武士や寺、庄屋が世の中から消え、それに代わって大企業や商社、百貨店(散歩道<3864>(高島屋に竹内栖鳳など名だたる画家達が出勤者名簿にサインしているのが残っている)等が、美術品を集めるようになって、そこからスポンサーとして援助を受けるようになったと言われる。
又、多くの画家がパリやイタリアの絵画を研究しようと留学する。帰国後は、その影響が広く深く日本の作品をより高度のものにしたのだ。
応挙派、狩野派の大きな流れは、塾を中心に、下へ横へと、そのすそ野を広く、優れた画家達が育っていったのである。それが京都画壇の大きな力となって、東京に匹敵する力ともなり、また、美術工芸品の評価を最高のレベルまで上げるまでになる。
明治中期以降、この学校で鍛えられた卒業生が日本全体のレベルを上げることにも貢献することにもなった。
これらの作品を見ていると、空間の余韻や構成上のバランス、詳細な描写の仕方など、それは日本流の良さであって、西洋にはないものだと思う。
日本独自の方法で130年間以上(江戸時代からは数百年)に培われた層の厚さや、色んな流儀が、絵画や工芸品等、西洋の作品だけが優れているという*2(絵画や工芸品に)昔の考えや、指摘は、間違いのように私には思えるのである。('10.9.28)
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