散歩道<3805>
講演会・平和のための戦争展・軍事郵便が語る望郷の念<2> <1>〜<3>続く
A、2010平和の為の展から、 B、テレビ・ゲゲゲの女房の戦争シーンから
右の写真は、舞鶴の軍港・戦線に出航する兵隊さんで一杯 戦争展で 2010年8月22日入手
4、満州事変(1931)後、満蒙開拓青年義勇軍とし(満州国の治安維持、対ソ戦備など国策的な政策を帯びていた)、3万人を満州北部に入植させた。この当時は日本軍は連戦連勝であった。
5、”生きて虜囚の辱(はずかしめ)をうけず、死して罪禍の汚名を残す勿(なか)れ”*1といった戦陣訓(1941年)の命令はまったく人間を無視した間違った指令である、日本を当時動かしていた上層部は十分な状況把握と戦場の変化を考慮せず、これまでの勝ち戦を最大限に重要視し、負ける要因は殆ど無視又は最小に評価し、間違った指示を出し、市民を犠牲にし、一般の市民兵士を物屑のように使って戦争を追行しようとするものであった。戦争の大本営の計画を追行したのは実戦経験の無い、紙上の戦略に過ぎなかったのではないか。その命令が出せるのは、一般兵士に(後方支援)を全部やってからでないと戦線の拡大などすべきではないと思う。散歩道<3259>日米海戦海軍はなぜ誤ったか、A、B
6、軍事力を維持する為には、後方部隊がしっかりして補給路の確保が戦争にはどうしても必要である。物資の補給なく戦線を広めたことは、戦ってる兵士は孤立化してしまう結果になり、戦う兵士を死に追いやることになる、敵方の猛攻に耐えながら、後方部隊からの物資が途絶えることは、生きて日本に帰るという希望すら無くする真理状態に追い込まれたという*3、この状態では勝つことなど考えられないのだ。そこでは、兵士は住民から物資を盗むか、自給自足の生活を戦場でする以外にないのである。A、B
7、アメリカとの開戦以降、北支から南方に移動させられた兵士は、何日も続く雨、衣服も濡れ状態で戦闘に備えなくてはない、衛生状態は最悪で、戦う以前に疲労、マラリア、コレラ、チフス、脚気で亡くなることが多かった。A
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