散歩道<3527>
平城遷都1300年記念・遣唐使船再現・シンポジューム(2) (1)〜(3)続く
4、日本の文化は中国と比べ1000年程、遅れていた、(日本の律令制度が導入されたのは718年から、中国ではこの制度は秦の時代・BC220年から実施)
5、中国は(儒教の教えが強い国で)、徳のある人が政治を行うのが正しく、それには学問が必要ということになる。
6、(630〜896年まで)16回遣唐使の派遣(15〜20年に1回ということである)を、日本は行っている、それは大変な苦労を伴う旅であった。
7、鑑真は大変な苦労を伴う旅で5度目の挑戦で日本に来た。それは 密航としてと思われる?。(唐まで無事ついたのは、5隻の船のうち1隻程の厳しい船旅であったようだ)。
8、遣唐使も、中国へ行っても親しい人脈を作るというようなことはなかった。唐に渡った人も少なかったこともあるが、高い地位に就くこともあまりなく、思う通りにはいかず、多くの人は中国で生きて、その中国で生涯を終えた。
9、中国(唐)が諸外国との関係は朝貢制(外国の遣いが来て貢物を奉ること)を求めた。臣と下臣(君子と臣下)の関係である。そこではじめて信頼関係が存在し、その関係になって初めて文化を中国は伝えてくれた。中国の進んだ文化の代表的なものとして当時尊ばれたものは、絹である。
'10.4.24.講演・講師・国学院大教授・鈴木靖民氏、奈良大教授・上野誠氏、東洋大教授・森公章氏、工学院大教授・榎本淳一氏
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備考:驚いたのは、配布されたシンポジュームの資料の中に、遣唐使の名前、来日者、一般の人の名が年代(630-800)と共に、明確になっていることである。
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