散歩道<346>
面白い本・五木寛之(3)・生きる言葉 (1)〜(3)続く
17、異端の問題が今大きい、異端として原理主義を排撃するということは問題だ。ピュアな宗教から見ると馴化したり土着的なものと混同した宗教は異端とされ、よくないとされた。けれど、21世記はそういう考えでは乗り切れないのではないかと最近考えている。私も異端を認めない不寛容さがテロの淵源なのではないかと考えている。異端はイスラム教の中にもあります、トルコには「アレビィー」という人がいる。彼等は独特の文化をもち、偶像を崇拝し、サズという楽器を使って音楽を奏で、男女が一緒にあっまってお祈りをし、ダンスをするのです。正統的なイスラム教からすると、淫祠邪教(いんしじゃきょう)と見られても仕方がない。あれは中央アジアのシャーマニズムとイスラム教が、混淆して出来たのではないかと思う。彼等は女性を差別しない。世界的にそういうものがどんどん出てくる、そういうふうに考えると異端というのは文化の多様性にすぎない。多様性を楽しむ余裕こそ豊かさなんですね。
18、人間に出来る程度のことを言うのを道徳というのです。でも宗教が道徳や処世術と違うところは、出来ないことを言うところです。できることとできないこと、見える世界と見えない世界、両方持っていなきゃ人間はだめなんじゃないでしょうか。又21世紀に人類が直面する環境問題は、いわゆるキリスト教的な考え方ではなかなか解決できないと思います。やっぱりキリスト教は人間を中心に考える信仰ですから、人間にとって大切な、草や、木や海や水を大事にして、人間の生活をこれ以上損ねないように大切にしなくてはならないというのが欧米流の考え方ですね。そうでなくて山にも木にもカマキリにもゴキブリにもみんな同じ命があるのだから、それを尊重しようという考え方に立ち返らなければならない。
19、たぶん、宗教が俗世から合法とされる時代になってあまりに常識と近づいてしまった。もう1回常識から離れたところからはじめないといけない。
20、普通は「神の視点」というのは、多人称で描かれた小説だというのが小説用語の上での考えです。けれどもそうではないでしょう。神の視点と言うのは、絶対的な神が存在していることを前提としての視点なんです。だから一神教的な信仰がないところに、本当の多元描写は成立しない。僕等は洋才だけを真似して書いているけれども、洋魂(ようこん)を持てない我々日本人には、神の視点というときの畏れとか、危うさの実感がないと思う。
21、はかないもの、危い脆(もろ)いもの、正統でないもの、混じり合ったものをいとおしむ文化が日本にはあります。日本の文化の多様性をもう一度考え直してみる必要がある。カルチャというのは混淆して成長する。20世紀は、その混淆した部分を、もう1度純粋化しようという動きが強かった。純粋でなくなったことをマイナスに考えていたんですな。そうでなく、混沌化した部分をプラスに考えようというのが今の私の考えなのです。自力か、他力か、敵か見方か、異端か正統かという2者択一を超えた考え方を、我々はしてきたし、今そういう考え方が再び必要になっているんです。そう言えば、五木寛之様は宗教的な寛容が必要だと繰り返し言われていますね。
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