散歩道<3286>
面白い文章・半藤一利様の話・「一発必中は百発一中にまさる」・「なんら金銭の支払いを要求せず」
「一発必中は百発一中にまさる」・三八式歩兵銃の制定・1905(明治38年)
太平洋戦争のとき、連合軍はすでに自動小銃を使っていた。日本帝国陸軍は1905(明治38)年五月五日、日露戦争の終わりごろに制定された三八式歩兵銃を使って戦った。日本は大戦争をするような国柄ではなかった。この話をしたとき、亡き司馬遼太郎は語った。
「昭和一四年のノモハン事件のころかな、旧制中学の軍事教練の教官が、《外国には自動小銃というものがあるが、あれはつまらんものだ。それにひきかえ、一発ずつボルトを動かす三八式歩兵銃は一念をこめて撃てる。一発必中の弾は百発一中の弾よりまさるものだ》といっていましたな。こんな兵器でノモハン事変を戦って、七割何分という戦史上まれな死傷率を出しながら、総崩れ現象をおこさなかったのは、感無量ですね」
軍部は国民にたいし”世界一の陸軍”と豪語したが、兵士の錬度はともかく装備の点ではかく二流、三流であったのである。三八式歩兵銃がその象徴であった。
そして厖大に製造した弾丸を消費するため、太平洋戦争も三八式歩兵銃で戦ったのである。
「なんら金銭の支払いを要求せず」・日露戦争ここに終わる・1905(明治38)年八月二九日
ロシア全権のウィッテのポケットには談判決裂の最終案がある。彼が会議室の戸を開け、隣室の随員に、ロシア語で「ロシアたばこをもってこい」といったら、満州に広く展開している数十万のロシア軍に即時進撃命令が電令される。危機一発であった。
ここで日本全権小村寿太郎がみごとな外交手腕を発揮する。日本が賠償金と樺太全島にあくまで固執するだろうと信じているウィッテのすきをついた。ウィッテが「樺太南部を割譲してもよい。これが最後の譲歩である!」というのを待っていた。小村は淡々と、
「なんら金銭の支払いを要求せず、樺太北部をロシア領土に残すことを承諾す」
といった。ウィッテは自らが最後といって提案したことを、撤回することができなくなっていた。
1905(明治38〕年八月二九日、日露戦争の講和がここになった。ポーツマス港をおおっていた暗雲は、いっきに晴れた。戦争の続行を望まない日本は、ともかくも”勝利を”世界史の上に印すことができた。