散歩道<3064>
                   面白い文章半藤一利様(23)・21世紀への伝言(文芸春秋)から
今年は戦後64年ということか、テレビ、新聞、戦争に関する記事が多い、どうも戦争を経験した人たちが高齢になって、伝えておかなくてはいかないことが多くあることに気がつかれたことのように報道されている。そこで、半藤一利様さんの文章から、終戦前1〜2年に絞って記事を報告します。

                「取られたものを取り返す」・ヤルタ会談決めたこと 1945(昭和20年)2月                     

 1945(昭和20)年2月4日から11日まで開かれたヤルタ会談での、米国大統領ルーズベルトは死を前にした病人であった。一時間は集中できるが、それ以上になると、考えることは支離滅裂、時折ぼんやり放心した。
 この病める大統領が、スターリンとチャーチルとともに、戦後の世界体制をきめたのであるからそら恐ろしくなる。彼らはまず、米英ソ仏によるドイツの分割占領を決めた。国際連合の構想も具体化された。
 そして日本にたいしては秘密協定を結んだ。ドイツ降伏3ヶ月後に、ソ連が日本に対して攻撃を開始するという約束である。ルーズベルトは代償に「ロシアが日露戦争敗北で失った諸権益の復活」を申し出た。すなわち樺太の南半分と千島列島をソ連に与える。
 「日本が戦争で奪い取ったものを、返してもらうことだけを私は願っている」
 「とられたものを取り返したいというのは、当然の要求でありましょう」
 スターリンとルーズベルトの会話である。

                 「日本の家屋は木と紙だ」・東京大空襲の夜 1945(昭和20年)3月

 第二十空軍司令官ルメイ少将は、戦果思わしくなく隊の士気も日ましに衰えてゆくのに業をにやした。そこで決断した。
 1、日本の主要都市にたいし夜間の焼夷弾攻撃に主力をそそぐこと。
 2、爆撃高度は5千より8千フイートとす。
 3、各機は個々に攻撃をこととす。(以下略)
 作戦の根幹は焼夷弾による低空からの夜襲である。
「それに日本の家屋は木と紙だ。焼夷弾で十分効果があげられる」とメイルは自信たっぷりにいった。

 1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲を皮切りに、メイル新戦術によるB29の大群の日本本土焼尽夜間攻撃がはじまった。この最初の攻撃の夜の東京市民の死者八万九千。私は辛うじて九死に一生をえた。
 「それは世界最大の火災だった。ふき上る火災の明かりで時計の文字盤が読めた」とアメリカ兵は語った。
 戦後、そのメイルに日本政府は勲章を贈った。あいた口がふさがらなかった。

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