散歩道<2878>
opinion・私の視点・大人になる君へ・他人のせいにしない姿勢を(1) (1)〜(3)続く
「大人になる」ための要件というと、人は責任感を持つのだの、社会的役割(選挙)を引き受けるだの、とかく「きれいごと」を語りがちだが、私見では多くの場合、大人になるとはすなわち感受性も思考も凝り固まっていくことである。
これは、さまざまな要素に目配りをして総合的判断を下せる能力と表裏をなしているが、現実的で円熟した判断と、往々にして因習的で定型的な判断、共同体の一員として生きていける「賢い」判断であることが多い。大人の入り口に立っている若者たちの耳に、自分の貧寒な経験から、絶えず「世の中そんなに甘くない」といい含める大人が多いのは困りものである。
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サルトルは、感受性や思考が型通りになってしまった人間を「くそまじめな精神」と呼んで最も軽蔑(けいべつ)した。「くそまじめな精神」は、自分や他人の「本質」から何もかも引き出そうとする。Aは「信用における男」だから信じていい、Bは「卑劣な男」だから付きあってはならない、Cは「軽薄な男」だから用心しなければならない、というように。
だが、じつは一人の人間がなぜあるときは行為を実現するのかのメカニズムは、全く分からないのだ。ある行為の「原因」はほぼ無限大であり追跡不可能であるのに、我々は行為の「あとで」その一握りの要因を「動機」として選び出し、「それらが行為を動かした」というお話をでっちあげているだけなのである。
動機ばかりではない。じつは世の中で解決済みとみなされている因果律、意志、善悪、自由、存在など、いったいこれらの概念が何を意味するのか、いまだに全然分かっていない。哲学をしてよかったことは、世の中のほぼすべての事柄は厳密に考えれば何も分からないのだ、ということが身体の底からわかったことである。
'09.4.16.朝日新聞・哲学者・中島 義道氏