散歩道<2855>             
                 opinion・私の視点・裁判(2)・死刑の是非、「悩む力」も必要          (1)〜(2)続く

 このような犯人なら、被害者遺族らの苦しみは少ななからず軽減されるかも知れない。しかし現実の裁判では、被告の事情や反省・謝罪の程度などが酌量要件として量刑判断の材料になるが、「ならば、そもそも殺人などしなければよかったのではないか」という単純な問いかけの前には、どんな理由も沈黙せざるを得ない。だから、被害者遺族が犯人側の身内の将来のことまで考えて心を痛めなければならないのは筋違いであり、遺族の前でそれらをほのめかすこと自体が被害者遺族にとってさらなる被害をもたらすという主張は十分理解できる。
 人の命が尊いのは、その命がたった一つのかけがえのないものだからである。それは犯人も同じではないかと訴え、愛する人の命を奪われたが、犯人の死刑を求めないことで憎しみの呪縛から解放されるという考え方にも一理あるとは思う。
 どちらにしろ、何らかの「解決」はもたらされるとしても、愛する人の喪失という事実を被害者遺族がいつまでも背負っていかざるを得ない現実は残り、話を堂々巡りへと導く。
 死刑は命を奪われた遺族にとっての復讐とみなされているが、結果としてほとんど何も解決してくれないばかりか、かえって人々の心に罪悪感(人の死を望む自分を見つける)を生む構造となっていると思う。
 各種世論調査などによると、多くの人が裁判員に選ばれたくないという。その背景には、こうした堂々巡りの判断者になりたくないという気持ちがあるからではないだろうか。
 ゼミでの議論を通し、制度としての死刑を議論することはできても、死刑そのものを論づることは難しいことだと感じた。私たちゼミ仲間15人は今春、大学を巣立つ。法律を学んできた者として、感情の問題は排除すべきだという法常識と同時に、裁判員制度が始まる現実と向かい合う中で、「悩む力」もつけなくてはならないと思う

'09.3.19.朝日新聞・明治大法学部4年・川畑 千里さん