散歩道<2638>
面白い文章(私の考えです)・なぜ国風文化ができたのか?(平安朝の文化にその歴史背景を考えた)(2) (1)〜(2)続く
また、唐等から入ってきた絵画(文化)は、背景には、中国の山が険しくそびえ、岩肌が目立つ厳しい景色は、日本には合わなかった、屏風の後ろには宇治川の絵が描かれていたとある。又、火事の被害は民衆のみならず宮中*1でも何度もあったそうで、当時の三条天皇(1012-16)が全て文物を焼失したと嘆いている事実も伝わっている。それらの絵を実際に見ていたのは貴族達であるが、それを描く人は絵師である、実際にその絵を見ていたかどうかは分からない、想像して描くとすれば日本の風景が思い浮かぶのが普通だ。そのようにしてどんどん国風化(日本化)が進んだと思われる。
私の推測だが、当時の資料の中に、宮中にも、盗賊の横行〔特に官公庁が狙われた)、疫病の発生や旱魃、地震の被害等特に、たび重なる火事の発生が記述がある。京都は当時から人口の集中地域であり、文化の中心である。幾たびの勢力争いの舞台となり、戦による火災で文物の継続はほとんど出来なかったと考えられる。その後も、室町時代の応仁の乱、安土桃山時代、江戸時代、江戸末期の”大河ドラマ篤姫”の”蛤ご門の変”と政権の交代の度に火災が発生した。記録上*2に残るだけでも大から小までその発生は数多い。そのたびに民衆はゼロから立ち上がざるを得なかったのだと思う。
京都人には、平安朝の昔から、家を建てたと思ったら次の戦で、もらい火により、何度も焼かれていく事実を、親子代々、言い伝えられて育ってきたことも、人を信づることに疑問を持つようになったのではと、京都が千年も前から文化都市であり続けた別の側面の背景があると私なりに考えた。
関連記事:散歩道<109>冷泉家美術展、<140>昔の宗教と絵画、<141>美術〔絵画)1、<142>美術〔絵画)2、<302>江戸時代の主な地震・*2火事の被害及び疾病、<570>平山郁夫さんの話・文化遺産の保護
<備考>*1960年内裏、1177年朱雀門、大極殿,民部省主要官庁消失、
<備考>'08.12.31.NHK,奈良・正倉院には、中に保存された貴重な文物を守るため、町内に消火隊が結成されて130年以上になるそうだ、正倉院で火災が発生した時は消火にすぐに向かう。一度130年前、正倉院に落雷があり、火災の類焼を止めたことがことの始めだそうだ。
![]()