散歩道<2547>
講演会・「福沢諭吉の倫理観における『公』と『私』」(2) 自分流に纏めた。 (1)〜(2)続く
10、財貨の贈与ならびに取得に関しては、中庸は寛厚であり、その過超と不足は放漫とけちである。放漫とけちでは、互いに超過し不足する仕方が逆である。
11、(中略)名誉と不名誉に関しては、中庸は矜持であり、その超過はいわゆる倨傲のたぐい、その不足は卑屈である。
12、「広狭二義における「正義」かくして、われわれが正しい行為と呼ぶところのものは、一つの意味においては、国という共同体に取っての幸福またはその諸条件を創出し守護すべき行為の謂にほほかならない。(中略)このような意味での正義は、それゆえ、完全な徳(アレイアー・アレテー)にほかならない。ただし、無条件的に同じものでなくて、対他的な関係におけるそれなのである。(中略)、かくしてもっともあしき人は自己にたいしても親しきひとびとにたいしてもその非徳をはたらかせるところの人であるのに対して、最もよき人とは、その徳を自己に対してははたらかせる人ではなく、他にたいしてはたらかせるところの人なのである。まことに、これは困難なしごとであるが。(倫理的な卓越性(徳)についての概説)
13、徳とは徳義と言うことにて、西洋の語にて「モラル」という。「モラル」とは心の行儀と言うなり。一人の心のうちに慊くして屋漏に愧ざるものなり。智とは知恵ということにて、西洋の語にて、「インテレクト」と云う。事物を考え事物を解し事物を合点する働きなり。またこの徳義にも知恵にも各二様の別ありて、第一貞実、潔白、謙遜、律儀等のごとき一心のうちに属するものを私徳と云い、第二廉恥、公平、正中、勇強等の如き外物に接して人間の交際上に見わるる所の働きを公徳と名く。又第三にものの理を究めて之に応ずるの働きを私智と名け、第四に人事の軽重大小を分別し軽小を後にして重大を先にしその時節と場所とを察するの働きを公智と云う。故に私智或いは之を工夫の小智と云うも可なり。公智或いは之を聡明の大智というも可なり。この四者の内にて最も重要なるものは第四の大智なり。蓋し聡明叡知の働きあらざれば私徳私智を拡て公徳公智となすべからず。或は公私相戻て相害することもあるべし。(文明論之概論)
'08.9.18.講演・国際日本文化研究センター所長・猪木武徳氏
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