散歩道<2514>
               面白い文章(12)・情報化に対応して文化審が常用漢字見直しへ「機械で書く漢字」認めよう              482から移動

 機械で書けない漢字など1日も早く廃止し日本語もローマ字か、あるいはカタカナかひらかなだけで書くべきだ、という主張がいたる所で唱えられていた。日本語を漢字かな混じりで書いている限り、タイプライターで美しい文書を迅速に作成できる欧米社会とは互角に渡りあえず、したがって近代社会達成などとうてい不可能である、というものだった。しかし、技術者の努力によりコンピューターで大量の漢字が使えるようになった。それとともに漢字廃止論の前提はあっさり崩れさった。かくして漢字は復権を遂げた。しかし、この復権は、過去に存在した伝統的文化へそのまま回帰するものでなく、近代的文明の中で脱皮しながら、新しい価値観をともなう環境に生まれ変わろうとするものであった。漢字を制限する目的で終戦直後に制定された「当用漢字」に替わり「常用漢字」が定められたのは1981年その時にはすでに6千字以上もの漢字が使える日本語ワープロが発売されていた。しかし、それは高価な機械であり、個人が使う漢字とコンピューターで扱う漢字の問題は、すりあわされることはなかった。だが大きく時代は変わった。コンピューターが急激な高機能化・小型化・低価格化とともに、一般家庭までに浸透した。もともと漢字は覚えにくく、書きにくい文字だった、それが今では、憂鬱(ゆううつ)だって、顰蹙(ひんしゃく)だって蹂躙(じゅうりん)だって、キーをいくつか押すだけで簡単に画面に表示できる、そこでは漢字の書き取り能力も書写能力の美醜もまったく問われない。こうして人々は漢字に対する敷居の高さを克服し、さらにたくさんの漢字が書ける自信まで持った。コンピューターを使えば漢字で書く必要がない。「辞書」が機械の中に内蔵されているから、書き間違うこともない。コンピュータ-を使うようになった多くの人は漢字を度忘れするようになったと多くの人は言う。それは文字記憶環境が昔に戻っただけで、漢字が書けるか書けないかは、元を正せば漢字に関する個人の知識量と習得達成度によるものである。いつの時代でも文字を手で書くという行為はなくならないし、それが文字文化のなかで非常に重要な要素を構成することは間違いない。どれほどコンピューターが進歩しても、文章の読み書きが国語力の基本であることは絶対に変わらないし、その基本教育がおろそかにされることは決して許されない。ただ、手書きの時代に大きな労力を必要とした複雑な漢字が、今は機械によって簡単に書け、きれいに印刷まで出来るようになったことに対しても客観的事実としてもはっきりと目を向けるべきである。これまで必要な漢字をすべて手書きで書かなくてはいけなかった。しかしこれからは、必ず手書で書かなくてはならない一群の基本的な漢字群と、正しい読み方と使い方を把握さえ出来ていれば、必ずしも正確に書けなくてもいい漢字群、というように、漢字全体を二層の構造に分けてもいいのではないだろうか。コンピューターで文章を書くのが普通になった時代に、20数年前定められた「常用性」が、大きく揺らぎ始めたのは当然である。文字は文化の根幹に位置するものである。文化審議会の提起をきっかけに、私達を取り巻く文字環境がより便利で合理的なものになるよう、各方面の積極的な努力を期待したい。
'05.3.朝日新聞、京大教授・和辻 哲次氏


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