散歩道<2286>

                         経済気象台(305)・聖人君子論考

 功成り名を遂げた後の松下幸之助翁は外見、聖人君子然としていたが、内面はとてもそんなものではなかったようだ。彼がばしば語った言葉に「ビジネスは聖人君子の業ではない」というのがある。聖人君子がいけないというのではない。その生き方は立派だが、その価値観は世の汚濁の外にあって自らの信念を貫くというものであって、とくに「金銭」に恬淡(てんたん)とすることをその一義とする。ビジネスは全くその反対で「金銭」を追い求めるものだ。ビジネスといえども、そこにはルールがあって、とにかくもうければよいというのは邪道だが、「もうけを上げ得ない企業」というのも悲惨なもので、その害、及ぶところ甚大だ。ひとたび、業を興せば、従業員、株主、その他関与する人々を潤し、国に税金を納めるのが義務となる。しかし、それは言うは易しいが行うは誠に難だ。理由ははっきりしている。この世のおおくの人々にとって「金銭」は何にもまして魅力あるもので、皆が欲しいのだ。これを合理的に「かすめ取る」にはよほどの工夫と才覚がいる。それがビジネスだ。翁の言葉の裏にはこんな思いがある。いわれてみればその通りで、あらゆる大金持ちの裏に、どれだけの寒々としたものがあるか。想像もつかないほどだ。ただ、不思議なことに人間には常に聖人君子をもって最良とする潜在意識がある。いわば「ええ格好」を求めてやまない。しかし、私のつたない経験でも「ええ格好しい」がトップになった企業の末路はなべて哀れなものであった。政治の世界でも同じことだ。堯舜の時代はいざしらず、行き過ぎた潔癖主義は時として独裁者の温床となる。聖人君子には竹林がふさわしい。企業に、政治に聖人君子を求めるなかれ。

'07.10.16.朝日新聞