散歩道<2235>
文章・戦争がいかに高くつくか教える・生命売ります
「戦争がいかに高くつくか教える」・対日賠償中間計画の発表1945(昭和20年)
1、1945年昭和(20年)12月7日、ポーレー使節団の対日賠償中間計画が発表された。それは敗戦国日本の息の根を止めるような厳しいものであった。「戦争がいかに高くつくか教える」ために、航空機・軽金属・ベアリング・などの工場を全部、そして鉄鋼・工作機械・造船所・火力発電所・硫酸ソーダなどの工場の半分を賠償として撤去する。工業水準を1926〜30年までに戻して、アジア諸国を上回る生活水準にならないようにする。撤去した工場設備はこれらの諸国に移して、工業化に役立てる、という内容である。しかし、この方針はのちに180度、転換する。東西冷戦が激化したからである。1947年、トルーマン米大統領は共産主義に反対する諸国民に援助を与えよう、という「トルーマン・ドクトリン」を発表する。米ソ間の冷たい戦争の始まりである。かくて日本を育て上げ、共産主義の浸透を防ぐ出城にすることに、米国政府は方針を決めたのである。神風が吹いた、ということなのかも知れない。(半藤一利さん)
「生命売ります」・占領下の忘れえぬ光景 1948(昭和23年)1月21日
2、一つの記録として残しておきたい。敗戦直後に出された占領軍指令の一部。
1、当分日本人の日没外出を禁ず。ただし提灯を携帯する警官はこの限りにあらず。
1、日本人は米国製の被服、自動車などを使用してはならない。また食料も米国製品を食べてはならないぬ。
1、進駐軍の自動車を追い越すものがあれば射殺する。・・・・・・などなど。
東京は銀座のど真ん中、四丁目の交差点には、MPが交通整理に立ち、服部時計店は占領軍PXになり、白人・黒人兵士が集まった。占領下の日本はあわれをきわめた。そんな混乱がおさまりかけた1948(昭和23年)1月21日、「生命売ります」という看板を胸と背中にかけた男が、寒風に吹きさらされながら数寄屋橋の上に立って、通る人を驚かした。とことん窮してこれ以上生きていても仕方がない。だれかおれの生命を買わないか、というのである。そんな時代が日本にあった。それもそんな遠い昔ではない。(半藤一利さん)
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備考:戦争は本当に悲惨なものと思います。忘れないように!