散歩道<208>

                     音の文化(4)・
日本の音楽(4)                (3)から続く

 日本人は合唱が苦手で、音楽の持っている二面性のうち抽象的、理性的、あるいは公的な側面を日本人は受け入れなかった。歌というものは楽しみであり感覚の刺激だと言う面だけを理解しているからそういうものに、淫するのはよくないこととなった。明治以後、西洋音楽がやさしい形で入ってきた。西洋音楽そのものは受け入れられないから、軍歌や演歌になり旧制高校の寮歌になった。日本語自体250年の経過の中で怒鳴るか、あるいは、ささやくかになっていった。きれいな声で音楽的に歌うのは恥ずかしい事でわめかなければいけない。他の国には自ら音楽を汚くしようと考え歌うということはまずない。服装もそうです。バンカラらというのは社交性欠如の裏返しで根本的に照れている。人の前で自分を美しく表現できないから、逆手に取って思い切り汚い格好をして汚い声で歌う。世界の音楽文化は合唱や何かの理論が発達している。ヨーロッパのハーモニー、対位法、オーケストラ等理論はだんだん細分化されている。日本のバンカラ音楽とささやき音楽は、彼らの思いもよらなかった人間的な可能性と言う音楽本来のもっている力、要するにディオニソス
(酒の神)的要素があって、経済的にも社会的にもちゃんとした文化をもっている人が、なぜか音楽だけは理論なしで感覚だけで続けてきた。日本の伝統音楽は全部私的楽しみの音楽です。西洋の場合は音楽を言葉から切り離してそれだけを純粋に磨きあげた。音楽は言葉と結びついて音と意味が人間の内面的の両側面をかたち作っています。わび、さびとか幽玄とかいった、ああいう曖昧な美を中国人、インド人は理解しない。日本人に音をちゃんと区別しないとコミュニケーションできないということが非常に重要だが、それができる。それは社交性の欠除と関係がある。単純化できる要素を出来るだけ単純化する。日本人が現代社会に強いのは近代工業の行き着くところに日本人の伝統的なものがうまく生かされている。ともかく、これだけ公という観念がなくて、しかも公社会を維持している国はそうないですね、現代は世界的に公の思想をどんどん失っている時代です。その点では現代と言う時代に合ってるともいえる。日本にはその絶妙なバランスの感覚がありますね。(小泉文夫・山崎正和様の本参考)、

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