散歩道<2056>

                           講演会・「桂離宮にエロスを読む」*2

 桂離宮を世に知らしめたのは昭和8年、ドイツ人フルート・タートである。ドイツからシベリアの大陸を鉄道で伴侶と二人で2週間かけた後、日本の敦賀に上陸、すぐに桂離宮を訪れた。そこでその美しさに感激したといわれている。桂離宮はよく日光東照宮*1と比較される。ここに住まわれた八条宮は《(後陽成天皇(1571-1611)朝廷の権威の回復に努力された)の弟である)》家康らによる画策により天皇にはなれなかったといわれる、後陽成天皇は詩、和歌、連歌に通じ古今伝授もされた、元々は桂離宮は王朝の優雅さを受け継いだ自然の洗練された感覚の八条宮の別荘である。古書院、中書院、楽器の間、松琴亭には(この設計には、後陽成天皇や八条宮の指示が殆どなされたようだ)空間の緊張感があるといわれている。(池、小川、島、橋、築山、竹やぶ、飛び石、小さな道、自然の感覚、材料、自由の庭園は王朝時代や、中世の庭に茶の庭を組み合わせた)。
 又、時代も公家から、武家
(織田信長や、豊臣秀吉)の社会になり、(公家)貴族としては落ちぶれていくより方法がなかった。その(無念の)思いを、この17世紀に平安時代の源氏物語の遊びの夢の世界をここに桂離宮に)蘇らせた建築されたのではないか、ここの造り(楽器の間)は町衆のお茶屋の造りと同じようにつくられている貴族も庶民も、その世界(遊ぶ空間)は同じであったのではないか?≫ようだと先生は考えられておられるようだ?と私は理解した。


'07.10.25.国際日本文化研究センター教授・井上 章一氏

備考A:日光東照宮*1
は桂の王朝の優雅さを受けた洗練された感覚と、教養人としての高い鑑賞眼に比較し、新しい環境や、厳しい自然に挑む果敢な精神。工匠として具体的に細部様式や技術から建築を作っていく立場であると比較されている。
備考B:熊野三山には、平安後期には、上皇、貴族らが何回となく参詣でを重ねた。この話を聞いて、何かの対談で司馬遼太郎さんがいった話を思い出した。そこまで引き付けたのはではないかと?。その後、熊野信仰は鎌倉時代以降、武士から庶民まで普及、参拝者で盛況を極めた。

備考C:*2エロスとは@ギリシゃ神話の愛の神
A愛。B性的な愛。
備考D
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