散歩道<1309>

                 時を読む・他者顧みぬ内向きの「美」(1)               (1)〜(3)続く

 東京駅の前に立つと、1つだけ外観が違うビルがある。ビルの形ではない。ガラス窓の光景である。どのビルも外観に気をつかっているが、このビルには、窓際にどっさり書類袋が積上げられている。立てかけられた書類ファイルも、裏面がずらっと並ぶ。新丸ビルのとなり、ある官庁が間借りしているビルである。瀟洒(しょうしゃ)な高級ブティツク、現代建築家が腕を競い合った実験的なファッシヨン・ビルの居並ぶ表参道にも、おなじような建物をみつける。ある国際ブランドの店なのだが、インテリアの裏面が窓際に露出しており、脇の通りからは、店員が箱詰作業をしたり、休憩したりしている姿が丸見えである。訪れた客をめあてに、内装や陳列台はさぞかし立派に飾りつけられているのだろうが、外からの眺めは無残である。
○ ○ 「美しい国へ」という言葉が独り歩きしている。この言葉、この夏に出た安倍普三氏の著書の表題であるが、じつはこの本のなかに「美しい国へ」の何たるかの説明は全くない。本文の末尾に一行、「わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い暦史と独自の文化をもつ国だ」という記述があるだけだ。「この文章に題をつけるとすればどんな言葉がふさわしいと思いますか」という国語科のテストだったら、とうてい及第点はつけられないだろう。一国の宰相になった人が綴った政治理念の書ということで眼を通したのだが、これがなかなか難儀な書物である。「素朴な」思いだとか、「だれがなんといおうと、本来、ごく自然の」感情だとか、「だれでも・・・したいと願う」とか「どこか不自然だ」という言葉が、大事な話の行き着く先を読みたいときにかぎって出てくる。話の決着がつく前に別の話に移る。理ずめで文章をおっていくとふっとはぐらかされてしまう。概念の一つ一つが論理的にしっかりした輪郭をあたえられていないので、理屈を追うのがむずかしい。

'06.10.16.朝日新聞・大阪大学副学長・鷲田清一氏

関連記事:散歩道<1246>時を読む・たしかな言論 活かすには(1)、<1247>(2)、<1248>(3)