散歩道<1040>
私の視点・NPO施設事件(2)・ひきこもり即効薬はない (1)〜(2)続く ・・・・・・・・・・・世相
そこに「不幸な家庭の内情をのぞいてみた」という大衆の欲望に迎合するテレビが加担する。その画面では、どこか怨念めいた情熱に駆られた善意の「支援者」たちが、「ひきこもり退治」の大義名分をかたり続けるだろう。彼等の言葉は、すでに「まっとうな専門家」に絶望してきたひきこもりの親たちにとって、最後の福音のように響いたはずだ。そう、我が子が救われるなら、手段の合理性など些末(さまつ)な問題にすぎない。かくも徹底した悪意の不在において、いったい誰が非難されるべきだろう?あるいはこの構造を許した無知と無関心さが罪ならば、誰が無実を主張できるのだろう?。驚くべきことに、専門家ですら「18才以上の青年を収容する公的施設がない」ことを問題視しようとする。いつから成人の「ひきこもり」と「家庭内暴力」は「収容」の対象となったのだろう。問題は宿泊型の支援活動に対して、その活動の合法性と人権的配慮をチェックする手段が、まったく存在しないことのほうではなかったか。無力感にさいなまれつつも今は、繰り返しつぶやき続けるほかはない。「ひきこもり」対応においては、ひたすら待つことにこそ決定的な価値があるということ。「いかにして待つか」の戦略に、ひきこもり臨床の真価があること。強制的介入と体罰の肯定は、それを勧める側の不安と焦燥の告白でしかないこと。本人のプライドを破壊してなされる価値観の注入は、パターナリズム(父が子に接するような態度)よりはカルトの手口にほかならないこと。家庭内暴力に対しては、入院や収容が最悪の手段であり、避難と通報の適切な組み合わせによって確実な解決が期待できるということ。最後に、抗議も弁明の機会も与えられなかった「26歳男性」の冥福を祈りたい。
'06.5.13朝日新聞 精神科医 斎藤 環氏
関連記事:散歩道<935>私の視点・NPO・市民による緩やかな監視を(1)〜(2)、