散歩道<1038>
時を読む・関西人よ、黙ってみよう(2) (1)〜(2)続く
私達の暮らしぶりが低迷している現実を見るに、どうやら関西においては街の騒音や話声の大きさと景気のよさは必ずしも結びつかず、私達が「活気」と呼んでいるものは見せかけに過ぎないと言えそうである。言い換えれば、私達の声の大きさはいまや習い性に過ぎず、のべつくまなしに喋っていられる程度に、かろうじて経済が回っているだけなのである。それにしても、私達が生来のサービス精神を発揮してにぎやかに喋り続けている間に、いつのまにかこんな停滞に陥っていたのだとすれば、私達が信奉してきた「活気」について、少々再考せねばなるまい。そもそも、声が大きいとはどういうことだろうか。大きな声はまず、「活気」「陽気」「繁盛」を連想させる。これは商売向きであるし、実際関西はそうして栄えてた時代もあった。さらに又大きな声は「目立つ」「自分を曝け出す」「表明する」ことになり、これは一般には「分かりやすい」「表裏がない」という評価につながる。かくして、大きな声で喋りまくる関西人はとにかく活気に満ち、よく目立ち、表裏なく自分を曝け出すので付き合いやすい、となるのだが、ある意味では、これは御しやすい大衆そのものの姿ではないか。例えば、大きな声で喋っているとき、私たちはまず周りが見えないという状況にある。お喋りに夢中になっていて後ろから車が来ているのに気づかないのも、電車内で自分の大声が他人に及ぼしている迷惑に気づかないのも、周りが見えない、もしくは周りを無視しているということであろう。又例えば、大声で話せば話すほど回り出した舌に勢いがついて止まらないという状況になるが、そこでは舌の回転こそが大事なことであって、何を話したかは問題ではない。これは、漫才で大笑いした後、笑っていたという記憶だけが残り、具体的な中身は覚えていないのと同じである。大声での喋りは、こうした思考の停止と周りへの無関心を生み続ける一方、もとはサービス精神から来ているために、その場限りの享楽や流行には敏感に反応する。面白がり、盛り上げ、「アホか」と吐き捨てて、さっさと忘れる。こうした関西人の性向は、流行を仕掛ける企業を絶えず鍛える一方、何かを地道に育てることをしない。そこでは眞の損得が見逃され、気がつけば私たちの財布は軽くなっていたのである。又、私達の大声は本音のように見えて、実はときどきの気分でしかないために、物事の核心や本流を知るところからは遠い。これは為政者にとって、実に都合のいい大衆の条件であろう。要は「大声で喋らせておけば、おとなしい」ということである。政治や企業の本音は、大声で連呼するスローガンの中にはない。政治も企業も、黙って収穫してゆくのである。ならば、私達こそ一度沈黙して、踊らされてるのを止めてみないか。
'06.5.15.朝日新聞:作家・高村 薫さん
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