散歩道<5406a>
                           (5406-5410)

散歩道<5410>川喜田半泥子物語美術展 その芸術的生涯(2
 また彼は、日本に写真の技術もまだ広がっていない初期の段階から、作品展を行わうほどの腕前であったと云われる。叉、経営者としても三重県の百五銀行の創立当時から頭取としてかかわることにもなる。経済人、文化人としても地域事業や文化事業の振興に大きく貢献したといわれる。 彼の作品には楽しさとユニークさが同居していたように見える。字にしろ絵にしろ、心温まるものをそこに感じるのである。心の底には、これからの日本の文化や美術等の世界で次世代の芸術家が育つ環境を自分から創る必要があると自覚していたように思える。

散歩道<5409>川喜田半泥子物語美術展 その芸術的生涯(1)
 
この美術展についてはNHK日曜美術館で取り上げられていたが、解説を聴くとユニークな楽しい画家であると興味引かれた。彼の生い立ちに文化的に恵まれた環境があった、その関係から著名な画家や書家との交流が出来、彼の才能が磨かれていく、精神的な面では大徹禅師との指導を受けることになる。彼の作品は独自の発想に基ずく美学で思い描いた通りに創るという、売れることを意識して作られていたのではない。強いて言えば
織部の陶器作品を目指していたように思う。作品は割れていたり曲がっていたり、いびつであったりである。記憶に残るのは、祖母”政”さんの遺訓である。'15.4..あべのハルカス美術館
散歩道<検>美術展解説

散歩道<5408>言われる。日文研学術講演会退任記念講演会    江戸を語る
江戸絵画に見る表裏一体の表現・・早川聞多教授
 江戸時代を通して江戸絵画には、初期の「洛中洛外図屏風」、与謝蕪村の文人画「四季山水図」、鈴木晴信の見立絵や浮世絵の春画等それらに「雅と俗」「公と私」「表と裏」が一体として表現されているという。狩野派と琳派のように全く正反対の流派が併存した。雅の世界とは全く違う平俗的な世界が描かれている。岩佐又兵衛が描いた洛中洛外図には方広寺の建立を祝って酒や魚で喜ぶ民衆の顔や、二条城色んな業種の市民、寺の坊さんも1一人一人の様子が喜んだり困ったりしている様子がこと細かに描かれている。その数は2800人になるらしい。蕪村の「蜀桟道図」には、落ちていく花や葉、屋根の切りくずが一緒になって下の川に流れている様子それを見てる人までがこと細かに描かれているなんと素晴らしいことか。また鈴木晴信は多色刷りの木版技を開発し、錦絵を創始した。浮世絵には日本独自の味がある。'14.3.25散歩道<検>美術展解説

散歩道<5407>日文研学術講演会退任記念講演会
・・・江戸を語る・・・江戸時代の新しい歴史像を求めて・・・笠谷和比古教授
 
大阪夏の陣の時、徳川幕府の勢力図は決して安定したものではなかった,徳川側は国持大名(加賀前田家や、池田家等)の少数藩で、関西以南は外様大名で占められ、関東以北も外様大名が占めていた。しかし、”太閤さまがお決めのごとく”と政治体制はその考えが尊重され持続していたのである。徳川側に組した大名達も石田光成の行政に反対したことにのみ、まとまっていたといわれる。天皇制との2重体制で京都に二条城を建て秀忠を2代将軍し、家康は征夷大将軍に任ぜられる。家光の時、江戸一国制を施行しキリスト教を禁じ、この年鎖国令を出す。寛永9年(1632)九州の大名から54万石を取り上げる。叉、吉宗の時代には全国的規模で「薬」の開発を実施している。'14.3.25散歩道<5022>8代将軍吉宗さん

散歩道<5406>久方ぶりの東京・銀座と同期会
 
新橋から銀座4丁目目指して、東京勤務中に毎日のように歩いた
銀ぶらを逆から観察してみたく日曜日の朝、カメラ片手に歩いた、世界の有名ブランドの店やユニクロやソフトバンク、ドコモ、ZARA等当時は見る事が出来なかった店の名である、街行く人には外国人の団体客のかたまりが、目につく、朝早くから客を待ち構える店は、大きくDUTY  FREEという英語が書いてある、皆平和なこの街に落ち着きを噛みしめているように私には見える。当時入っていた2つのデパートに入った。商品のレーアウトはセンス良く洗練されているように感じるがどの店も余り変わらないのが最近の特色のようだ。 昼過ぎに、懐かしい同期の同僚に会う皆元気で嬉しい。毎日の生活今後やろうとしていることなど話合う。時間がある者でカラオケに行く、
私にとっては初めて聴く皆の歌声である、何とも嬉しく、楽しい、私は、
歌に合わせて手話を披露、それは予想外だが良かったようだったやはり、東京は日々進化しているように私には見える。
<検>地方