散歩道<4238>
社説・3・11
東京支えた東北を心に刻め(1) (1)〜(2)続く
かって英国に留学した際、ロンドン周辺で現地の高校生に「国の自慢は何ですか」と聞くと「美しい田園風景です」と答えたのに驚いた記憶があります。私は東日本大震災を目の当りにして、そんな経験を思い出しました。
戦後日本の、とりわけ東京の発展は、東北が支えてきたといっても過言ではありません、東北は自給的生活を捨て、首都圏と社会的な分業関係に入ることで成長を裏から担ったのです。分岐点となったのは1960年ごろです。
まず成長の原資となる大量の労働力を提供しました。中卒の「金の卵」や職にあぶれた農家の20〜30代が労働力として吸い上げられました。出稼ぎも青森、秋田、山形を中心にピーク時で全国の半分強を東北で占めました。いずれも稲作単作地帯で農家の稼ぎ手は都市にとって冬季に臨時で雇える便利な存在でした。
若者が都市に吸収されたことで、農村に深刻な高齢化、跡継者不足という事態を招きました。エネルギー転換で木材が燃料につかわれなくなり、建築用材もより安い製品を求める都市の大資本、消費者の論理で輸入材に切り替わります。中山間地の山林は無価値になり、過疎化します。
70年代に入ると交通網の発達もあり企業が地方に移転します。米価は政治的な力に支えられて安定し、企業移転によって地元での兼業も可能になった。私は、米と工場の二本柱が次世代もしっかり回るなら農村は安定的に発展するだろうと考えていました。
しかしグローバル化が進み、企業は海外へ出て行きます。残ったのは、兼業で生活が安定していた零細農家。結果、農地の集積による大規模化、効率化への転換が遅れました。国内の均衡ある発展の維持よりも、国境を超えてより安い労働力を求めて動いた資本の論理によるものです。
'11.3.26.朝日新聞・山形大学名誉教授・大川 健嗣さん
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