散歩道<4002>
美術展・第64回二紀展
今日は('10.11.17.京都市立美術館)、私の友人のアマではあるが二紀会のメンバーであり、ギャラリーを持ち、自分の作品を展示販売もやっている、彼の画家の立場からの解説を聞きながら全作品展を見る。(これは彼の意見である)
この会の委員、会員、同人の先生たちは、作品を毎年の展示会に、継続的に出展するため、絶えず新しい挑戦をし続けておられるのである。その内に一つの形が出来上がる。何年もこの会の作品展を見続けていると、誰が描いた絵であるかは分かるものである。
これらの方たちの、多くの型は、絶えず美術展を見、本を読み、その情景を取り入れて作品が完成されたものである。そこに描く作品の特色である、重厚さ、目新しさ、発想の面白さの差が出る。
最近、絵を描き続けることが自分でも本当の修錬ではないかと思うようになった。今、自分は壁*1に当たっているのか、描くことができない状態が1年近く続いている。
人が、その作品を見て、どうしても去りがたいような作品(自分もそうであったから)を、画家として描き続けなくてはいけない。それが何なのか、いつも考えつづけている。
平面的なものかを描くのと、立体的なものを描くのでは大変な差がある。(立体的なものは随分描き難い)。
作品の資料として使う景色を撮るために、海外、特にヨーロッパには何度も行ったが、写真を何百枚撮るのだが、満足できる写真が撮れているのは1か2枚である。
作品を見比べて、よく似ていると観客が思うようだと、いいわけではない。展示されている絵が配置によって、室内のドアや窓の縦や横の梁に重なるようだと、そのよさが消され、絵から汲み取ることができないのは残念である。
絵を描く立場から説明を受けたが、元気な絵、印象が残らない絵、心情の変化が感じられた絵は、表現に表れるものらしい。
作品を見ながら彼は、賞をもらった作品に目新しさや、発想の面白さを、そこに見つけて説明してくれたが、納得していたようだった。
何かこちらに訴えてくるものがない絵はいい作品とはいいがたい。
画面が浮かび上がってくるような(麻布の上に描いた)、(金属板が張られた上に描かれた*2)、千住博氏のように(噴霧器を使った*3 )絵など、興味を持った。
室内で飾る絵、展示会のために描く絵、皆そんなこと考えながら描いているのである。2012年7月12日
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