散歩道<399>

                     時流自論・頑張れ・教養人よ

 ”頑張れ、教養人よ”という時流自論がある。フランスの有名人ボルテールは地理学者、文学者、誰とでも談論風発、とどまる所を知らなかったといわれているが専門家から見ると弱いところもあったようだ、何も知っていることはとても可能なことではない、知識の該博さはその知識が浅博であることの裏側の表現に過ぎないということなのか、しょせん世界を動かしているのは小さな領域に沈潜してはいるが、その小さな世界を知り尽くした「専門家」たちなのだ、ということなのか。勿論専門家の労苦を軽んじることなどできるはずはないが、専門家にしかできないことで、世界は満ち満ちている。にもかかわらず、現代のような知的状況の中で私は、脱専門家的な方向が持つ可能性にもう一度かけることは出来ないかと考えている。今は知識が精密で厳密である分、専門家は、世界を細切れにしか見ることが出来ない。世界の小片の襞(ひだ)の折り目まで知り尽くしている分、それを遠くからおぼろげに見た時に見えてくるかもしれない、大きな裂け目やうねりを、見て取ることが出来ない。例えば日本の文化が今後だいたいどのような方向に流れていくのかを総体的に予想する人、その予想に基ずいて現時点で何をしたらいいのかを述べてくれるそんな人がもっといて欲しい。ボルテールは、当時「哲学者」と呼ばれていた。実は私が今希望したようなことが出来る人は、まさに哲学者に相当する人だ。日本の哲学者は哲学史の文献学者が大部分で、今私が望んでいるような役割を背負おうとはしない。脱専門的な総合的な見通しをしてくれる人がやはり少なすぎる。日本の高等教育でさえその様な教養教育が解体されている。専門家から見れば胡乱(うろん)に見えたかもしれないこととはいえ、教養なるものはまるでつかみ所がなく、すぐに役立つという規範にも従いそうにない。とはいえ、それは本当に空虚で時代遅れの擬似的知識でしかないのか。専門家とは違う切り口を適宜、提示することが許された社会空間を整えた方が結局は、専門人にとって有益なはずだ。「顕微鏡」で見ることだけが見ることではなく、朧気な霞(かすみ)をボーっと眺めることにも、それなりの意味がある。幸いなことに優れた専門家はたくさんいる。だから今求められるのは、もっと太書きの構図を描ける人、良い意味での文明論的な見通しを背負うことが出来る人なのだろう。教養とは古臭く、うさんくさく、権威主義的で嫌味な言葉でも実は大切な意味を抱えもっていたのだ。

04.12.5.朝日新聞・”頑張れ、教養人よ”東大教授 金森修氏

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