散歩道<2906>
美術展・妙心寺と関連する絵画の話二つ、1、等伯と狩野永徳 2、白隠
5月の連休の初めで多くの観客で一杯である、伝統ある禅宗のお寺として開祖された13世紀から現在に至るまでの書籍や文物や自画像が大切に保存され、このお寺と関係があった天皇、将軍、奥方等や住職、この寺を中心に社会に説法された僧侶、この寺の屏風や、襖の絵などを描かれた絵師の作品を、一堂に、この展示会で公開されたものである。応仁、文明の乱の火災等で文化を維持し伝える事はこの時代、実に大変なことの記述がある*3。ここでは、2つの話題に絞って記述します。
1、'09.4.15.NHKの番組から歴史秘話ヒストリア「美の戦国合戦・国宝が秘めた絵師の夢と野望・永徳VS等伯の京都名画」、このような捉え方もあるのだと思った。それによると、等伯(1539-1610)=信春は、越前七尾市に生まれる。染色屋*4で藍染の技術を学ぶ。朝倉義景(1533-73)からの依頼で武田信玄(1521-73)への絵を依頼される。京都・足利義昭(1537-97)の依頼で本願寺の絵師として装飾的な金碧障壁図の襖絵、壁の絵を数多く作成する。町絵師という=町民の依頼を主に受け入れていた。インテリアデザイナーのようなものであったという。
等伯は、又、堺・茶の湯の中心人物である・千利休の助けがあって、大徳寺の迦陵頻伽(かりょうびんか)を描くことができた。国宝「松林図屏風」、「枯木猿候図」、智積院の金碧障壁図や国宝「楓図」、国宝「桜図」等も描いたと言われている。晩年は、子供、理解者すべてを失ってしまったといわれる。最晩年の作品は、故郷・羽咋市の郷里への家族への思いを、能登半島の海岸にまばらに立ってる、松の絵であると解説者が説明されていた。(この景色は今もこの地区に残っているものだ)。
一方、狩野永徳(1543-1590)は狩野派で御用絵師=として祖父元信の指導を受け、安土城・大阪城・聚楽第などに豪壮雄大な障壁画を制作、「洛中洛外図」*1、「唐獅子図屏風」等手がけたといわれる。安土城の「唐獅子屏風」を豊臣秀吉の依頼で描く。また、花鳥図も数多く描く、しかし、永徳は長谷川等伯の御所への制作を妨害も行っている。
備考:NHK・連続TV番組「天地人」・上杉景勝(1555-1623)、兼続(1560-1619)の時代の話、関連記事:散歩道<736>*4尾形光琳・生家は染料呉服屋、<1526>*1舟木本「洛中洛外図屏風」、<2638>*3戦争、災害が文化に与えた影響は計り知れない。
2、白隠(1685-1768)*2:自由闊達な絵(自画像、達磨像)を描いている。彼独特の絵と筆さばきは見事である。教えや、字体も楽しく描(書)かれている。そんな流儀で禅の民衆化や、公安体系の整備を行い近世的禅宗を成立させた、又、多くの弟子も育てたといわれている。
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