散歩道<2401>

                      私の視点・ことばの教育(2) 「スピーチ学」を採り入れよ             (1)〜(2)続く

 語り手の意図や、語りの空間、話の展開などを自分で考え、「だから私はこのように発生するのだ」というように、主体的に表現する。そうして刷り込みを強固にしていくのだ。題材を自分たちのまわりに置き換えるのもいい。ワーズワースの「水仙」の詩なら北海道のラベンダーの感動に、米国のキング牧師の名演説「私には夢がある」ならば、自分の夢に移し替えて表現してはどうか。自分のものにすることで表現法は身につくものだ。
 一方、話し書く訓練の際には、「誰が」「だれに」「いつ」「どこで」「何を」「どんな目的で」なのか。その設定も大事だ。例えば、語り手は現実の私、聞き手は個人だったり組織だったり、想像上の生物や無生物でもいい。子供達の空想に任せよう。時も場所も自由だ。
 コミュニケーションはきれいごとではない。情報伝達、説得、歓待、弁明、祈りもあれば呪いもあろう。ほめ殺しもあれば泣き落としもある。「喫煙をやめない親に禁煙を説得する」「イラクのフセイン元大統領がブッシュ米大統領に戦争の正当性を問い直す」でもいい。スピーチ教育は遊びではない。想像力と表現力を鍛える貴重な訓練の場なのである。
 論理性は大事だが選択肢の一つにすぎない。「理屈だけでは動きそうもない相手だ。情に訴える方が良い」という場合もある。ミュニケーションの本番以外は、すべて入力の過程である。まず体のなかに豊かな表現を入れること。詩人エリオットが言うように「独創とは先人からの剽窃
(ひょうせつ)である」のだから。


'07.12.19.朝日新聞・南山短大教授・日本コミュニケーション学会会長・近江 誠氏

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