散歩道<1275>

                  作家・丸谷才一さま面白い話・大集合(499)・1914・袖のボタン・政治と言葉(3)         (1)〜(3)続く                                                             
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1914 そこで新しい政治言語の仕上げは新首相に委ねられることになるが、あの人、果たしてどうだろうか。実は今度、新著『美しい国へ』を読んで、小首をかしげたくなった。本の書き方が無器用なのは咎(とが)めないとしても、事柄が頭にすっきりはいらないのは困る。挿話をたくさん入れて筋を運ぶ手法はいいけれど、話の端々にいろいろ気がかりなことが多くて、それをうまくさばけないため、論旨がうまく展開しない。議論が常に失速する。得意の話題である拉致問題のときでさえそうだ。一体に言いはぐらかしの多い人で、そうしているうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言うべきことが乏しいせいではないかと心配になった。すくなくとも、みずから称して言う「闘う政治家」にはかなり距離がある。当然のことながら読後感は朦朧(もうろう)としているが、後味のように残るのは、我々が普通、自民党と聞いて感じる旧弊なもの、戦前的価値観への郷愁の人という印象であった。近代民主政治は、血統や金力によらず、言葉でおこなわれる。その模範的な例は、誰でも知っているようにリンカーンのゲティズバーグ演説(「人民を、人民が、人民のために」)である。易しい言葉しか使わない短い演説で、人心を奮い立たせた。マーク・トウェインからヘミングウェイに至る新しいアメリカ文学の口語性はここからはじまる、という説もあるらしい(ゲリ・ウイルズ『リンカーンの三分間』)。しかしいま読み返して見ると、リンカーン個人の才能、戦時の大統領という激務のなかにあって二度も原稿を書く情熱もさることながら、やはり古代ローマ以来の雄弁術の伝統が決定的にものを言っている。民衆が政治家に、言葉の力を発揮させているのだ。社会全体のそういう知的な要望があって、はじめて言葉は洗練され、エネルギ−を持つ。しかし今の日本の政治では、相変わらず言葉以外のものが効果があるのではないか。私は二世、三世の国会議員を一概に否定するものではないけれど、その比率が極めて高いことには不満をいだいている。『美しい国へ』でも、父安倍晋太郎(元外相)や祖父岸信介(元首相)や大叔父佐藤栄作(元首相)の名が然るべき所に出て来て、なるほど、血筋や家柄に頼れば言葉は大事でなくなるわけか、などと思った。

'06.10.3.朝日新聞・作家・丸谷才一さま

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